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カルラエの戦い

カルラエの戦い(カルラエのたたかい、Battle of Carrhae)は、紀元前53年にカルラエ(現:ハッラーン)で行われたローマ軍とパルティア軍の戦い。第一次パルティア戦争の最終局面であり、パルティアが勝利を収めた。

紀元前55年にマルクス・リキニウス・クラッススは、グナエウス・ポンペイウスと共に務めたコンスル(執政官)の任期を終えた。当時、クラッススはポンペイウス、ガイウス・ユリウス・カエサルと共に三頭政治を行い、2度の執政官を務めて政治的な実績を重ねた一方、第三次奴隷戦争を鎮圧して以来ほぼ20年間、軍事的に目立った実績は無かった。クラッススは、最も容易な敵と考えた[要出典]パルティア遠征を考える。元老院は遠征しないように説得したが、カエサルとポンペイウスが賛成したので、元老院はしぶしぶ納得した。

クラッスス率いるローマ軍は紀元前55年の終わりにシリア属州に到着し、アルメニア王アルタバゼス(Artabazes)の協力でアルメニア山脈を越えずに直接パルティア王国へ向かった。迎え撃つパルティア王オロデス2世は軍隊を2分し、歩兵部隊をアルメニアへ送り、騎兵部隊でクラッススを迎え撃つ準備をした。

両軍はカルラエ近郊で激突した。
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スレナスが指揮を取るパルティア軍は数では圧倒されていたが、1,000の重装騎兵と9,000の騎乗弓兵でローマ軍の重歩兵を撃破した。騎乗弓兵はローマ軍の密集戦術に対し連続で一斉射撃を行った。パルティア軍は矢による弾幕を行うために、ラクダで矢を運んだ。

ローマ軍が散開して騎乗弓兵に突撃すると騎乗弓兵は退却するふりをして距離を開けて馬上から後方に射撃を行い、ローマ軍は矢攻撃に対して効果的であるが進軍速度が遅い防御陣形(テストゥド)へ変更することを余儀なくさせた。こうして足を止めたところにパルティア重騎兵が突撃した。こうした戦術はパルティアンショットと称され、現在は英語で「捨て台詞」を意味する。ローマ軍は単純な密集隊形を採用していたため、騎兵が機動力を発揮できる地形では不利であった。ローマ軍の大きな盾は矢の一斉射撃に対して有効な防御策となったが、盾を支え続けた兵士たちは負傷する前に脱水症状と熱射病から衰弱した。

カルラエの戦いは、ローマが喫した大敗北のうちの1つである。この戦いの中でクラッススの息子プブリウスは戦死し、首級はローマ軍から見える槍の上に晒された。クラッスス自身もこの戦いの後に殺害され、首級はオロデス2世のもとへ送られた。パルティア軍の残り半分のアルメニア方面軍はアルメニア王国を征服し王を捕虜とした。しかしながら、この勝利によりオロデスは司令官のスレナスに疑念と嫉妬の念を持つようになる。スレナスの死後、オロデスは自ら軍隊の指揮を執るようになる。オロデスはスレナスと違って戦いに慣れていないばかりか、器用では無かった。

クラッスス配下のガイウス・カッシウス・ロンギヌスはシリア属州から約10,000の兵を連れて帰り、2年間シリアをオロデス2世の攻撃より守る。その後カッシウスはパルティア軍を破り、この勝利でマルクス・トゥッリウス・キケロから賞賛された。カッシウスは、紀元前44年のカエサル暗殺の首謀者の1人となった。

カルラエの戦いによって、絹がヨーロッパ大陸にもたらされた。どうにか戦いを生き残ったローマ兵士は、パルティア軍の光り輝く旗(恐らく絹製)を見たことを報告した。ヨーロッパで絹への関心が大きくなっていったことが、シルクロードが中国から西ヨーロッパまで延長され、歴史上最も大きく最も豊富な通商路になっていくことの大きな原動力となる。


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2009年05月29日 14:45に投稿されたエントリーのページです。

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